『魔性の子』は十二国記の外伝的なホラー作品。記憶を失い、十二国の世界から現代社会に戻ってしまった泰麒が遭遇する惨劇の物語です。

『魔性の子 十二国記 0』あらすじ
広瀬は幼い頃の臨死体験から、他人とあまり馴染めずにいた。ただ、良くしてくれた恩師の影響で教師を目指し、母校へ教育実習に訪れる。
そこで広瀬は高里という生徒と出会う。彼は幼いころに神隠しに会い、それ以来「高里は祟る」と噂されていた。
高里にシンパシーを感じた広瀬は、彼と交流をはかるようになるが、高里に危害を加えた生徒が次々と不審な死を遂げていく。
広瀬は高里を保護するものの、疑心暗鬼になった周囲からたび重なる報復を受け、惨劇はさらにエスカレートしていき…。
自分に都合の良い異世界なんてない
『魔性の子』は残酷な物語です。
高里の「祟り」で周囲の人間が無惨な死遂げるのも残酷なんですが、一方で、異世界は「ここでないどこか」を夢見る人間(広瀬)には門を開かないところも残酷だと思うんです。
どんなに高里に尽くしても異世界は残酷なほどに彼を拒むから。
高里と自分を同じ側だと認識し、彼を助けることで自分の「夢」を正当化したい広瀬。そんな広瀬に対する後藤先生の言葉が印象的でした。
ここから逃げれば どこかに居心地のいい世界があるんだと思ってるんだ。
罪のないお伽噺でも、いつかは切り捨てなきゃならないんだよ。
異世界に行けばチートで簡単に人生がひっくり返る。そんな自分に都合の良い異世界なんて、本当はないんですよ。
でも、だからこそ人は、お伽噺にすがるのかもしれません。
一方で異世界に招かれた高里(泰麒)も、戻ったからと行って、実はそこも地獄なんですけどね…。
人が人であることは こんなにも汚い
久しぶりに『魔性の子』を読み返して、広瀬の印象が変わりました。最初は高里(泰麒)の協力者として呪いに巻き込まれる姿が哀れだと。
でも、読み返して見ると、彼は別の意味で哀れなんです。
故国喪失者として、高里の唯一の理解者として、「自分は人とは違う」ということを示したかった。こちらの後藤先生にお伽噺と言われても、それを認めたくない。
そんな自己中な妄想は、アニメ『十二国記』オリキャラ、浅野くんにも通じるものがある気がします。
物語の最後、あちらへ帰ろうとする泰麒に「どうしてお前だけなんだ」と詰め寄る広瀬。その姿は醜く、そして哀れです。
人が人であることは こんなにも汚い
作中、何度も登場するこの言葉。人が汚いからこそ、この惨劇が起きたのでしょうね。
おまけ
- 廉麟は李斎から泰麒の特徴を聞き出して「この人を知りませんか?」って聞けばよかったのでは…?いくら姿が違っても、年齢性別は同じなんだし。
- 李斎は泰麒が、名字をもじった名(蒿里)で王に呼ばれていたのを知ってるだろうし、それを陽子にあちらの文字で書いてもらって、それを見せて探せばよかったのでは…?
- そもそも広瀬って教師に向かないのでは?「自分は人と違う」って思ってたら生徒のことを理解できないのでは…?
- 『魔性の子 十二国記 0』
- 『風の海 迷宮の岸 十二国記 2』