『〈あの絵〉のまえで』はアートや美術館がモチーフになっていますが、女性たちの挫折と成長がテーマの物語なので、美術に興味がなくても楽しめます。
傷ついたり、落ち込んだりしている人に読んでほしい短編集です。
中でも、私が特に感動したのがこの二編です。
『ハッピー・バースデー』(ゴッホ:ドービニーの庭)
8月6日生まれの広島の女性のお話。現在は母と娘と暮らし、ひろしま美術館に務めている。誕生日はいつも広島平和公園へ行き、慰霊碑に祈りを捧げ、その後にお祝いをしていた。
彼女が大学生だった頃、一度だけ誕生日を忘れてしまった。急いで帰郷し母と再会。その時に母から、小さい頃に母と二人でひろしま美術館へ行った時のことを聞いた。
そこで見たゴッホの絵は、友人が送ってくれた手帳の絵と同じだったのだ。
忘れてはならない日は、だれかの大切な日でもある。母子の絆をひろしま美術館のゴッホの絵が繋いでくれます。 すごく心が掴まれる物語です。
小さな子どもを連れて行くことに躊躇した母親が、美術館に電話をするとこんな答えが返ってきました。
来てつかあさい。美術館に入ったらいけん子どもさんはひとりもおりません。
このお話を読むと、もう、泣いちゃうんです。母の愛情の深さにも。
豊穣(クリムト:オイゲニア・プリマフェージの肖像)
小説家志望の亜衣は、さくらライターとして生計を立てている。ある時、隣にスガワラさんという老女が越してきた。スガワラさんは事あるごとに亜衣を気にかけ、家での食事にさそってくれた。
そんなスガワラさんに、自分の過去を話す亜衣。するとスガワラさんは「あなたの小説が読んでみたい」という。
やがて、スガワラさんは息子夫婦の元で暮らすことになり、亜衣はその前に彼女の職場である豊田美術館を尋ねることに。
そこにある絵は、昔、おばあちゃんが送ってくれた絵葉書に描かれたものだった。
亜衣のおばあちゃんの深い愛情と、スガワラさんの慈愛が亜衣をふたたび勇気づけてくれます。この二人の女性の、生き様の凛々しさ、素晴らしさに感動しました。
アートが生きる力になる
他にも、肉親を亡くしたり、ハラスメントで心を削られた女性たちが、偶然出会ったアートによって生きる力を取り戻す姿が描かれています。
作者も略歴も知らなくていい。ただ〈あの絵〉のまえで純粋に絵をみつめること。きっと、それが大事なんだと思います。
文庫では収蔵美術館の学芸員の方々が絵の解説を担当。解説を読んでから読み直すと、物語をより深く味わえます。
原田マハ アート小説
- 『板上に咲く』…妻の視点から描く版画家・棟方志功
- 『楽園のカンヴァス』…アンリ・ルソーの絵画を巡るミステリ
- 『リボルバー』…ゴッホを殺した銃についてのミステリ
- 『〈あの絵〉のまえで』…アートから生きる力をもらえる短編集
- 『たゆたえども沈まず』…日本人画商とゴッホ兄弟の絆
- 『デトロイト美術館の奇跡』…美術館を守ろうとする市民たちの物語
- 『美しき愚かものたちのタブロー』…美術版プロジェクトX
- 『リーチ先生』…陶芸家・バーナード・リーチの生涯を弟子の視点から描いた作品
- 『ジヴェルニーの食卓』…女性たちが魅入られたマティス・ドガ・ゴッホ・モネとその作品の物語

